2022年11月03日
マリー・キュリーと津田梅子~「女性の時代」へ至る道は遠く険しく
10月にスタートしたTVドラマ「ファーストペンギン」。主演は奈緒さん。とってもチャーミングで芯の強い女性を演じていて、毎回楽しみに観ています。
その「ファーストペンギン」というタイトルの由来。
元来臆病であるペンギン。その中で、多くの敵が潜む海に真っ先に飛び込み、仲間たちを先導するペンギンのことを敬意を込めて「勇気ある一羽目のペンギン=ファーストペンギン」と呼びます。
ここに掲げた二人の女性は、まさに「時代を先取りした」ファーストペンギンと言っていいでしょう。
wikipediaより
マリア・サロメア・スクウォドフスカ=キュリー
1867年11月7日~1934年7月4日
ポーランド、ワルシャワ生まれ。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任した。
1909年アンリ・ド・ロチルド (1872-1946年) からキュリー研究所を与えられた。
放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による。
*「キュリー夫人(Madame Curie)」という呼称は夫に従属する妻という意味ではなく、これはマリ自身が中学時代の友人に婚約を知らせる手紙の中で、「次に会うときには姓が変わっています」と書き「キュリー夫人。これが私の新しい名前です」と自ら使っている。
小学生の頃に、学校の図書室で借りて読んだ記憶はありますが、小学生時代から根っからの文系だったものですから、女性科学者であるキュリー夫人の伝記はそれほど印象に残ってませんでした。でも、100年以上も昔に科学者として大きな業績を残した彼女のことは知っておきたいと思って、久しぶりに映画館に行ってこの映画を観てきました。
映画『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』予告編
kino cinéma 作品情報
~その名を誰もが一度は聞いたことがある歴史上の偉人、キュリー夫人。1903年にノーベル物理学賞、1911年に同科学賞を受賞し、これは人類史上初の快挙で、現在も同賞を2度受賞した事のある唯一の女性である。その彼女が夫と共に発見した放射性元素は科学の常識を覆し、癌治療に活用され多くの人々の命を救った一方で、核兵器として戦争の道具で使われ、人類に様々な面で大きな影響を与えた事はあまり知られていない。
本作ではそんな彼女の輝かしい業績とは裏腹に、愛する夫との出会いと別れから、女性や移民である事で差別を受けてきた、知られざる波乱に満ちた激動の人生の“光と影”に焦点を当てた衝撃の実話となっている~
「リケジョ」(理系の女子学生や女性研究者)…こんな俗語でカテゴライズすることは「女性差別」をあおる言葉ですが、それは未だに「女性研究者」にとって居心地のいい研究の場や条件が確保できていない現実があることには間違いないのでしょうね。
作品の中では、キュリー夫妻の私生活が描かれると同時に、肉体をギリギリまで酷使しなければならない苛酷な研究の日々(これは全くスマートなものではない作業・労働といったほうが適切)
また放射能を医学に応用した放射線治療によって多くの命を救えるようになったこと。一方で、兵器として使用されたヒロシマの悲劇。核のエネルギー利用の闇の部分「スリーマイル」や「チェルノブイリ」の原発事故なども映像の中に組み込まれています。
現在の私たちの暮らしの中に「必要不可欠」という名目で存在しているものと、どのようにつき合っていくのか…。
とにかく、あらためて考えるだけでも意味のあることではないかと思いながらスクリーンを観ていました。
この映画の原作は「放射能 キュリー夫妻の愛と業績の予期せぬ影響」というタイトルで
著者はローレン・レドニス 2013年刊行です。

映画のあらすじ


学問の世界において、20世紀初頭は未だ女性に対する偏見が存在した時代だった。マリ・キュリーの履歴には数多くの「女性初」という言葉がつくが、これはジェンダーを根拠とする理不尽な扱いを受けながらもそれに毅然とした態度で臨んだ結果でもある。
ピエールとマリ夫妻、研究所にて。1890年代に撮影。手前に写っている機器が放射能測定機器
キュリー夫人の後継者としては、実子である娘イレーヌとその夫フレデリック・ジョリオ=キュリー。1925年、フレデリック・ジョリオ=キュリー(人工放射能の研究者)はラジウム研究所でマリ・キュリーの助手となり、そこで彼女の娘であるイレーヌと知り合った。夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞した


☆津田梅子
2024年に、お札が新しくなりますね。
2019年4月、日本政府が一万円札、五千円札、千円札のデザインを新しくすると発表しました。これに伴い、お札に描かれる人物も変更。お札が一新されるのは2004年以来のこと。
新しい五千円札の肖像になる人物は「津田梅子」。岩倉使節団に加わった日本初の女子留学生の1人です。帰国後、女子教育の必要性を感じて「女子英学塾(現・津田塾大学)」を創設。津田梅子は「女性教育の先駆者」と呼ばれるようになりました。津田梅子が表面に描かれ、裏面には藤の花が描かれます。
津田梅子ら5人の日本初の女子留学生がアメリカに出発。
その船には、53人の若き留学生とともに、上田悌子(15歳)・吉益亮子(15歳)・山川捨松(12歳)・永井繁子(9歳)・津田梅子(数え年で8歳)の五人の少女たちも乗船していました。
わずか6才(満年齢)で渡米した津田梅子が、男尊女卑の激しい日本社会において、帰国後、如何にして女子教育を推進したか。
wikipediaより
1864年12月31日~1929年8月16日
江戸の牛込南御徒町に生まれる。日本の教育者。日本初の女子留学生の一人。
女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。
また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。
梅と水仙 著者/植松三十里 PHP研究所 発行(2020/1/14)
津田梅子の生涯については、今年3月にTVドラマ化されました。その少し前に私は上記の「梅と水仙」を読んでいましたが、日本初の女子留学生という華やかなイメージとは全く違って、わずか8歳で、親元を離れて遠い異国の地で勉学に励んで帰国したあとの梅子が自分の経験や知識をまったく生かすことができず苦悩する歳月が長く続いたことに驚きました。諸々の政治的な思惑が絡んでいたこともあるでしょうが、やはり女性蔑視の風潮は一朝一夕には排斥できないものであること。
ドラマでも、ここは、しっかり描かれていると感じました。
津田梅子~お札になった留学生~
あらすじ
明治時代、開国を成し遂げた日本政府は、国費で外国へ留学する女性を募っていた。父親仙による熱心な働きかけで6歳の梅は、岩倉使節団の一員として最年少で10年間の米国留学へ行く事になる。留学中に仲間の吉益亮が1年で帰国させられると言うハプニングはあったものの、当初の予定を上回る11年ものホームステイを通じて西欧の文化を学び、無事帰国。
留学した知識を広めて国につくそうと森有礼を通じて学校教師の仕事を斡旋してもらおうとするが、当時の文部大臣から冷たくあしらわれ、政府が彼女たちを留学させた目的も、文明開化を欧米諸国にアピールする為の政治的パフォーマンスであった事と解り彼女たちは絶望する。また、旧来の家父長制をとる自らの両親にも違和感を覚えていた。
何とか教師の職にありついた梅であったが、その賃金は同じ学校の外国人教員よりも低くおさえられていた。加えて生徒たちは学習意欲が低く、女学校は結婚する際の箔付けと考える上司に、社会進出には程遠い日本の女子教育の現状を知らされ梅子は大いに悩む。
では、津田梅子の後継者は…
あまり名前は知られていないようですが、星野あいという女性。
明治17年(1884年)9月19日~昭和47年(1972年)12月5日
日本の教育者。女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。ブリンマー大学B.A.。コロンビア大学M.A.(教育学)で学ぶ。
女子英学塾を創設した津田梅子の後継者として女子英学塾塾長(第2代)に就任し、津田英学塾塾長、津田塾専門学校校長、津田塾大学学長(初代)を務め、約30年間に渡って津田塾の運営を担った。
星野あいの晩年の短歌
夫(つま)も子もなき身なれどもわれたのし教え子あまた身近にめぐる
こうして、これからも多くの女性たちに、ファーストペンギンの心意気が受け継がれていくのであればいいなあと願っています。

renge26tanpopo at 20:29│Comments(0)│読書・映画